第二代学園長(石橋益惠)

略歴

日本における音楽教育の先駆者として名を馳せた石橋益惠は、上野学園の創立者石橋藏五郎(初代理事長)の一子として、学園創立の年である1904(明治37)年に生まれた。幼い頃から長唄と箏曲を学び、10代の半ばから洋楽教育を受け、ピアノを学ぶようになる。

1921(大正10)年に東京女子師範學校附屬高等女學校(現お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)卒業後、東京音楽學校本科器楽科(現東京藝術大学音楽学部器楽科)に入学し、ピアノを小倉末子、ウィルリー・バルダス、レオニード・コハンスキーの各氏に師事する。1927(昭和2)年、同校研究科器楽部(現同大学大学院音楽研究科)を最優秀の成績で修了、総代として答辞と卒業演奏を行う。その後は、演奏活動の傍ら、母校他で後進の指導に携わる。指導を受けた人の中には世界的な演奏家や教授者になった専門家のみならず、皇族・華族・政財界の重鎮の子女も多かった。海外研修派遣の話は在学中から何度も出たが、その都度、自身の病気や上野学園の事情で見送ることになる。

1930(昭和5)年7月、上野高等女学校の校舎が隣家の火事の類焼で、3分の2を焼失する。関東大震災時の全焼後に新築した校舎の落成披露から、わずか2年半後のことである。26歳の益惠は、再起をかける藏五郎を補佐することを迷い無く決断し、上野高等女学校の常勤理事に直ちに就任する。翌年4月より同校教諭を兼任し、その後1936年に副校長、1949年に校長に就任する。

教育現場に立った益惠は、青少年の音楽教育の充実の必要を痛感し、1936(昭和11)年に東京都私立高等女学校協会主催の「音楽教育研究会」「音楽資料展覧会」を本学で開催し、校内外に問題の提起をする。これは後に1946(昭和21)年、上野高等女学校が東京都における音楽教育研究指定校となり、更に1949年高等学校に全国で初の音楽科を開設、翌年文科省から音楽実験校の指定を受け、その後の短期大学音楽科(1952年)、大学音楽学部(1958年)の設立へと向かう端緒である。

益惠は上野学園を通して学会や社会における活動も積極的に行い、最前線で戦後日本の教育界を牽引する。東京都の関係では東京都教育刷新委員会臨時委員(1946年)、東京都社会教育委員会委員(1951年)、東京都映画教育委員(1956年)をそれぞれ委嘱されて、東京都の教育行政に大いに力を尽くす。この労に対して東京都知事より1961年「教育事業に尽力し功労顕著」として表彰を受ける。

また、1952年に学長に就任して以降は、東京私立短期大学協会理事(1956~63年)、日本私立大学協会芸術教育振興委員会委員(1959~63年)として、日本の私立大学全体の発展にも尽力する。

更に、国の文部行政に関しても、文部省短期大学教育課程等研究協議会委員(1957~59年)、文部省大学設置審議会委員(1959~67年)の委嘱を受け、学校経営者であると同時に教授者でもあるという幅広い観点からバランスのとれた意見を提供して大きな貢献をする。

他方、専門の音楽教育の分野では、国内外の学会・団体等の理事・顧問・委員等を委託される。特に、16年間の永きにわたってつとめた、全国音楽高等学校協議会理事長(1963~79年)として、日本の音楽教育の向上に計り知れないほどの大きな貢献をする。また、1943年から東京藝術大学音楽学部同声会理事に就任して母校の発展にも寄与する。

以上のような各方面にわたる尽力に対し、1962年には「教育の振興に寄与し公衆の利益を興した成績著明につき」藍綬褒章を賜り、更に1974年には「長年の教育界への貢献により」勲三等宝冠章を賜る。

1964(昭和39)年、石橋藏五郎理事長逝去により、理事長に就任する。1971年以来、皇居内桃華楽堂で行われる皇后陛下を始め皇族方の御前で新卒業生が演奏する5つの音楽大学のひとつに上野学園に於ける音楽教育を発展させる。また1963年に「石橋益惠奨学金」制度を発足するなど、学生生徒の音楽技術の向上に貢献する。

1981(昭和56)年、学長・校長を勇退し、学園長に就任、理事長を兼任する。1992(平成4)年2月28日、88歳で逝去。

上野学園に奉職した頃の益惠
上野学園に奉職した頃の益惠
修学旅行で生徒と(1956年)
修学旅行で生徒と(1956年)
藍綬褒賞を受賞する益惠(1962年)
藍綬褒賞を受賞する益惠(1962年)
創立80周年記念式典で式辞を述べる益惠(1984年)
創立80周年記念式典で式辞を述べる益惠(1984年)

石橋益惠のことば

石橋益惠は自身も演奏家として秀でた才能を持ちながら、一方で日本における音楽教育の普及に生涯を通して物心両面から尽力した。また音楽を通じた人間教育の重要性についても、益惠は折に触れ講演などを行った。以下、折々の先生のことばを掲載する。

音楽教育について

私は、人間を作ることが、大切だと思っています。音楽を通して人間を作り、人間を作ることによって、良い音楽を育てる。(1964年「学報第5号」:兼松信子教授・萩原和子助教授との座談会「巣立つ人たちに」より)

音楽を志す若い人たちに

私は、音楽を志す方たちには、特に意識して、ご自分の人間性をみがいていただきたいのです。そして、音楽が良くなれば、人柄も良くなると信じております。演奏はまた人柄をありのままに表します。そして、すぐれた聴き手になることもまた、大切なのです。(音楽之友社刊「音楽大学・学校案内1991年度版」より)

レッスンを受けに来た生徒に

きれいな音で―、きれいな音で―、きれいな音で音楽をお弾きなさい。雑音があってはいけない(益惠が主宰したピアノ教室「満須美会」で、生徒に繰り返し言った言葉。1992年「学報45号」:兼松信子「想い出」より)

音楽を学ぶ人たちに

音楽は、ただ楽器を巧妙に動かす機械的能力の優秀なことをもって誇りとするのはいけません。その技術の奥底にひそんでいる崇高無限の精神を尊重すべきです。そして今後社会に出でられても、教養につとめられると同時に、修養に専念せられ、人格の向上完成に、一層の力を致されんことをお願いします。

美しく、正しくあることは大切です。それは、趣味として音楽をなさるにも、また音楽を持って教職にたずさわれるにも、美しいメロディーのように美と清潔の点では一段と優れた音楽家になって下さい。(1954年「さくら62号」:短大を卒業する学生に向けて書いた「一歩を進められる皆さんに」より)

基礎の大切さ

中学・高校、そしてその上へとすすんで行くにつれて、自分のものをしっかり持ち、自分自身を表現することが、だんだん重要な意味をもつようになって来ます。しっかりした基礎をもつこと、その基礎は、他人ではなく、自分が、自分のために作るのですから、すべて積極的にとりくむ意欲と強い意志、そしてそれが出来るだけの健康をもって日々を、すごしていただきたいと思います。(1977年「さくら85号」:「基礎の大切なこと」より)

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