創立者・初代学園長(石橋藏五郎)

若き日の藏五郎

創立者石橋藏五郎は1875(明治8)年7月20日、現在の青森県八戸市に生まれ、幼少の頃から、その優れた資性は、人々の注目するところであった。1891年、16歳で、小学校教員検定に合格。一時郷里で教鞭をとるが、1893年、志を立てて上京する。まず、自らの心身錬成を目指し、日本体育会体操学校(現日本体育大学)に入学、この第1回卒業生となる。さらに東京府教育界会教員伝習所(1894年)、東京唱歌教員講習所(1897年)、国民英学会(1899年)、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)専科(1902年)のそれぞれで修業する。この間、体操・音楽・英語の各専科教員免許状を受領する。教鞭をとった諸学校には、日本橋常磐小学校、成城中学校、日本体育会体操学校、荏原中学校等が含まれる。

体操教育の発展に寄与

藏五郎は音楽、舞踊、体操のいずれもがリズムや呼吸、運動感覚が重要であることに着眼し、これらを組み合わせた「律動運動」や「遊戯競技」「音楽遊戯」などを創作する。現代で言えばダンス・エクササイズやラジオ体操、リトミックに似た身体表現能力のトレーニング・プログラム等に当たる。

体育の授業が、欧米諸国から取り入れた兵式体操のように、おもしろみが少ない体操が中心であった当時、藏五郎の楽しく体育を学ぶことのできるこれらの運動は、瞬く間にブームとなり、藏五郎は全国のみならず、海外からも招聘されて講演や講習会を行う。

当時の小学校は一般に設備が不十分で、屋内体操場が無い学校が多く、そのため雨天の際は授業ができず、雪国では冬の間は全く体育ができない学校が多くあった。藏五郎はこのような場合のために、机や腰掛けを利用した体操と遊技を創作し、これもまた人気を博した。

音楽教育の発展に寄与

情操教育としての音楽を藏五郎は重視したが、同時に身体的成長、特に聴覚と知覚の発達にも音楽は不可欠であると主張し、運動や舞踊に伴う音楽の作曲・編曲を多数行っている。

さらに小学校の「唱歌」、中学校の「奏楽」の授業で使用される歌や音楽も作詞・作曲している。特に唱歌の「二宮尊徳」や「牛若丸」は有名で、戦後まで広く子供達に親しまれた。また郷里や教えていた学校をはじめ、全国の小学校・中学校・女学校の校歌を作詞・作曲しており、本学の校歌も藏五郎が作曲する。

近代女子教育の先覚者

上野女学校を創立した頃の藏五郎

上野女学校を創立した頃の藏五郎

1904(明治37年)年4月、藏五郎は私立上野女学校創立にあたり、同志と共にその経営に参画、直ちに実務執行企画等のリーダーになり、同年11月に上野桜木町に上野女学校を開校し、最高顧問に就任する。

明治時代初期には、欧米の影響を強く受けた女学校が次々に開校され、教育に男女平等の道を開き、女性の意識改革や地位の向上に大きな影響を与えた。しかし、日清戦争の頃から、再び男女間に格差をつけ、女子には妻・母の役割を躾るという旧来の教育思想が巻き返すようになる。1904年は日露戦争開戦の年でもあり、女子が受けるべき教育とは「良妻賢母主義」に根ざす必要があるという考え方が一般的であった。

藏五郎は良妻賢母を否定したわけではない。しかし、妻・母になることだけが、女性の道であるとは考えず、家父長への服従を美徳とする風潮には批判的であった。藏五郎は女性が自分の才能に気づき、磨き、それを人によっては社会で、人によっては家で(または、その両方で)発揮し、自分に誇りを持つことを説いた。後に藏五郎は自覚教育について次のように述べている。

「特に現代の女子はよく時代の趨勢(すうせい)を理解し、しかも着実勤勉にして理想を追うて向上し、天賦の才能を発揮して世のため人のため家のために尽くし得る婦人たらねばならぬ。実に自覚せる女性にして初めて自ら言行を修め、自ら目覚め、自ら創造することが出来よう。」(1929年『創立25周年記念誌』より)

1933年の体育大会

1933年の体育大会

大正時代の課外の音楽授業風景。ヴァイオリンの他、ピアノ、オルガン、箏曲を学べた。

大正時代の課外の音楽授業風景。ヴァイオリンの他、ピアノ、オルガン、箏曲を学べた。

このような教育は男子には必要でも、女子の場合は自発性・自立性を徒に高めるとして、批判する者もいた。しかし、開校日には20数名であった生徒数が、数日後には70名を超える。さらに1912年、学則の改定により上野女学校が上野高等女学校(以下、「上野高女」と言う。)となると、生徒定員は250名になり、さらに1920年には570名、1930年には800名と激増していく。先見の明を持った人々には、女性が男性に依存する時代の終焉と、その後の時代に生きる女性に必要なものは「自覚」であるということが見えてきたと言える。

上野高女の教育的特色を具体的に挙げると、第1に家政以外の授業数を、高等女学校令によって定められた上限一杯にし、さらに補講等によって、一般的な男子中学校に匹敵する授業カリキュラムを組み、特に英語に力を入れた他、実践教育を重んじ、理科実験や地歴等の授業用に最新の機器・設備を整えたことにある。第2に、体位向上・健康増進に重点を置き、藏五郎の体育理論を授業に取り入れ、課外の体育運動としてバスケット・ボール、バレーボール、テニス、卓球、薙刀の5部を置き、身体強化を目的とした行事(運動会、競技大会、徒歩教練、登山、林間・臨海での合宿等)を実施した。また保護者の為の衛生や食事に関する講習会を頻繁に開き、家庭と連携して生徒の健やかな身体成長を促したことにある。第3に情操教育を重んじ、特に音楽教育に力を入れ、当時は稀少であった楽器やレコードを揃えた。学芸披露が年に数回行われた他、上野高女が主催・協賛する演奏会も開かれ、生徒は日々の生活の中で教養を深め、表現力を養うことができた。

このような教育の結果として、大正時代の記録を見ると、上野高女は全国平均を上回る進学率・就職率で、一方、身長などの体格や運動測定値も全国平均以上であった。

上野高女は藏五郎の教育的理想を具現した学校であったが、藏五郎自身は教育のノウハウは一組織の専有物であってはならないとし、日本全国の教育関係者の視察を受け入れ、積極的に講演や著作物を通じて自身の提唱する女子のための新教育の内容を提供した。

著書による公共への貢献

藏五郎の著作物

藏五郎の著作物

1901(明治34)年から1925(大正14)年の間に、藏五郎は音楽と体育に関する理論書・指導書の他、一般向けのハンドブック等、約30冊を著し、その多くはベストセラーとなる。

特に遊技競技やリズム運動に関する著書は増版を重ね、海外でも出版された。東京高等師範学校の可児徳教授との共著「理論実際 競技と遊戯」(中文館、1919年)は、教員の初任給が15円程度当時、定価4円50銭と当時の最高値であったのにも関わらず、9版を重ねる(本書は1997年に日本図書センターより復刻版が出た)。

また、他に月刊雑誌「国民と体育」を1915年に創刊し、約20年間これを経営刊行する。

幾多の危機を乗り越えて

修学旅行を引率する藏五郎(1942年)、藏五郎は晩年まで修学旅行や夏季合宿などに参加し、生徒達に指導をした

修学旅行を引率する藏五郎(1942年)、藏五郎は晩年まで修学旅行や夏季合宿などに参加し、生徒達に指導をした

1954年頃の藏五郎。校長室にて

1954年頃の藏五郎。校長室にて

大学の入学式で式辞を読む藏五郎(1962年)

大学の入学式で式辞を読む藏五郎(1962年)

本学は比較的、順調に滑り出し発展していたが、1923年に最初の危機が訪れる。9月に発生した関東大震災によって、校舎が全焼し、廃校の議が起こる。藏五郎は一人決然と立って、再興に着手し、新校舎を竣工するが、そのわずか2年半後の1930年7月、隣接家屋からの類焼で、校舎の大半は再び灰燼に帰した。藏五郎は一時呆然となるが、再度復興に着手、1935年11月、全校舎の竣工をみる。しかし、第2次世界大戦中、校舎の一部は陸軍の工場として使用され、さらに空襲の被害にあい、その修復工事に戦争後1年がかかる。その度ごとに藏五郎は私財を投じ、勇を振るって学校を存続させてきた。

そのような危機もあったが、1949年に校長を退くまで、藏五郎は良き協力者にも恵まれ、学園は着実に発展、教育界に貢献するところ大であった。その後も日々精勤し、学校法人上野学園理事長として、また上野学園大学・上野学園短期大学の名誉学長として、学園の敬愛を集めた。

藏五郎は他の教育機関では、財団法人日本体育会(現学校法人日本体育大学)と最もその関係が深く、同理事であり、日本体育大学名誉教授であった。

その功績を称える表彰、受賞受牌の数は30有余に及び、1943年には、「私財を投じて教育上公衆の利益を興し成績顕著なる」を以て藍受褒章を賜る。

1964(昭和39)年4月20日逝去。享年90歳であった。逝去後、従五位勲三等に叙せられ、瑞宝章を賜る。

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